Key作品(麻枝作品)に「変わること」「変化」が多いのは何でだろう?

 麻枝作品研究シリーズw これも特徴的なことですね。
 CLANNADリトルバスターズ!智代アフターでは特にそれがテーマになっていましたが、それ以前の作品でも多く登場しているテーマの一つなのが「変わること…変化」です。
 例えば、Kanonなら真琴が退行していくこと=変わることでしょうし、舞と魔物の関係も=変わることと言えると思います。ONEなら、主人公の浩平自体が、妹であるみさおが生きていた頃(=えいえんのせかい)を願うのか、その頃を振り切って新たな世界(=ヒロインたちとの繋がり)を願うのか、という話になっているかと思います。MOON.にしても、主人公(女)の天沢郁未が、色んなキャラと出会い、色々な出来事に巻き込まれていくうちに、女性っぽさが無かったのが、段々と母性に目覚めていく…みたいな話でしたからね(そうですよね?)。
 CLANNADでは、幻想世界の少女の「変わっていくこと…仕方が無いこと…」がテーマでしたし、智代アフターは、智代が朋也無しで生きていくようになれるようになっていく話でもあります。リトバスは、まさしく「成長」「変化」がテーマでした。
 このように、麻枝作品ではほぼ確実に、現状(ゲーム開始時)からの変化を伴うシナリオで占められています。「それってギャルゲでは普通じゃね?」と思われるかもしれませんが、鍵では「恋愛方面」以外の部分での「変化」がかなり多いんですよね。しかも、主人公とヒロインの両方が変わっていく、というパターンが非常に多いのです。
 では何故、麻枝准は「変わっていくこと」を描きたがるんでしょうか?
 それは…前の記事と同じようなことを書いてしまいますが、「ユーザー目線で作っているから」では無いかと思うわけです。
 ユーザーにとって、ゲームをプレイする以前と、シナリオを知ってしまった以後という状態では、もちろん「変わっている」わけで。つまり、ゲームをプレイすることによりユーザーに変化が生じることを想定して、ゲーム内でも「変化」をキーワードにしているのでは無いのかなあ?と。CLANNADでは、学校編を経て得た経験を、特に風子とかでは「感覚」として覚えていて、記憶は無いのに引き継いだりしています。リトバスでも虚構世界での経験を知らぬ間に経験値として積み重ねてますしね。特に顕著なのがAIR。Dream編で見てきたものを、AIR編では記憶も引き継ぎながら、何も手出しできない傍観者としての立場から見るしかない、という状況に置きました。
 CLANNADリトバスでは、ゲーム中の主人公は、ルート的に複数のシナリオを1本で経験できるわけではなく、一度物語が終わり、別の物語として始めるわけですが、ユーザーはすべて経験しているわけですよね? だからこそ、ゲーム中の主人公やキャラたちも、「記憶」というほどの強いものではないにしろ、何かしらの経験を踏まえた「変化」をつけているのかと。究極の形はAIRでしょうけどね。記憶を持たせた状態でかつ傍観者っていうのは、ある意味ではユーザー目線すぎるわけですし。物語に介入できない理屈を作る意味でも、かなり斬新なアイデアだったように思います。
 「変わること」は、ユーザーの経験値を計算した上でのシナリオの書き方・見せ方だった、とすれば、結構鍵シナリオの見方も変わるんじゃないですかね?
 
 以上、ネタはまたまた、永空さんから頂きました。