「過去編を除いたAIR」からAngel Beats!と麻枝准を考えてみた〜Angel Beats! 考察

 前回の考察で、AngelPlayerの制作者は誰? というものをやりましたが、コメントをくれた方の意見や、雑誌での麻枝准本人のインタビュー等から、音無や天使ちゃんでは無いことが明らかにされました。まあ僕の見立ては間違っていたわけですが、音無やかなでが、AP制作者とシンクロする部分があったことは、何らかの示唆になっているのではないかと思います。特に音無はイレギュラーな存在ですしね。
 なぜああいうことを書いたかといえば、Angel Beats!のアニメで放送された中の誰かじゃないとすれば第三者が作ったことになるわけで、それこそ「それ誰だよ?!」ってことになるんじゃないかと思ったからですし、あれだけいる登場人物の中にいない、ってのも何かおかしいとも思ったからです。
 
 ただ、AngelPlayerって何かに似てると思いませんか? そうです。それが「AIR」における呪い(みたいなもの)のようじゃないかと。そのものというわけじゃないんですが、AP制作者が待ち人を待ちきれずにNPCとなって一日を繰り返すだけの日々を選んでたり、出会えるあてのない待ち方をしたり、愛が生まれると世界がリセットされてしまったりと、AIRの呪いっぽいテイストは感じられるんじゃないかと思います。
 AIRは最後、「ごーるっ」で終わるわけですが、あの終わり方ってアニメだけ見た方はともかく、ゲームをプレイした方は納得できたでしょうか? 非常に感動的なシーンではあるんですが、呪いがあることを前提にして初めて「ごーるっ」の意味が理解できるわけですし、最後の少年と少女のあのCGが生きてくると思ってます。場面だけを感じても非常に特異ですごいことはわかります。
 しかし、AIRという作品の構成と担当ライターさんを考えてみましょう。企画やメインシナリオは麻枝准ですが、美凪シナリオは後半部分が魁せんせーのようですし、過去編(summer編)は涼元悠一氏だとされています。つまり麻枝准は、観鈴あたりしか描いていないということにもなります。もちろん、企画ですから全体的に目は通しているはずですし、作品構成にも関わっていると思いますが、特に過去編あたりは描き方が完全に麻枝准のものではなく、むしろ小説家出身らしい涼元氏の、伏線やら設定やらにこだわった完結していて独立した物語になっていたように思います。
 AIRって個人的に思うのは、過去編があるからこそ最後の「AIR編」で観鈴が苦しんだりゴールしたりというシーンが生きてくるのであって、過去編が無いAIRってどんな風になるんだろう? と考えてしまいました。というのも麻枝准は、母として(?)成長して自覚を芽生えさせる晴子と、何かのゴールを見つける観鈴、それを主人公が傍観者として見てるだけ、というのを描きたかったのだと極論的には思います。つまりは、観鈴に課せられた呪いが何であるかとかは、麻枝准にとってはあまり重要なことではなかったんじゃないのかと。何せAIR編で「神奈」や「翼人」の話がどれだけ出てきたことでしょうか? ほとんど出てないような覚えがあるんですが……。何が言いたいのかと言えば、麻枝准の中では、過去編は無くてもAIRという作品の話としては成立して完結しているんじゃないのかと思うのです。
 
 そう考えると、Angel Beats!のAngelPlayerの制作者も「昔この世界にいた誰か」程度で解決してしまうような気がしています。別に、作品で描かれた世界に出ているキャラが絡んでいる必要性も、それを誰がやったかを明示することも、麻枝准の中では大したことはないので描かなかっただけ、と考えられるわけで、本人も第三者であると明言しています(megamiマガジン8月号参照)。APをかなでちゃんが使っている理由も適当すぎる感じで語ってますね。つまり、AngelPlayerは物語を考える上での一要素に過ぎないということなんじゃないかと思います。
 でも、どう考えても重要すぎる要素ですし、この部分に1クールのアニメが作れるだけのドラマが入っているにも関わらず、この扱いなわけです。これはどういうことかと言うと、つまりは誰もが重要だと思う部分、説明しなければダメだろうと思う部分は、原作と脚本を麻枝准ひとりでやっているために、誰のフォローも入らなかったということなんだと思っています。
 これがAIRであれば、呪いについては過去編で非常にわかりやすく、かつ面白い話の流れで説明が為されていて、シナリオに厚みも生む結果になっていますが、過去編を抜いたら、恐らくはAB!のAPのような理解度になっていて「何で観鈴は弱ってしまったん? 往人が力を使ったのに……」ということになるのでは無いでしょうか? それとAngelPlayerについてのドラマが描かれていない(ただNPCが説明しただけ)のは似ているような気がしますし、その頃から麻枝准の描き方は変わっていないようにも思いました。
 ではどうして麻枝准は、このような重要と思える要素のいくつかを、描かなかったり、軽い説明のみで飛ばしてしまうんでしょうか? 前述の通り、その部分が麻枝准にとっては一要素に過ぎない、という理由もひとつですが、他にもあると思います。
 つまりは、麻枝准の中で描きたい場面は他にあるんじゃないか? ということです。優先度が格段に落ちる部分が、こうやって適当な描写だけで済まされている部分なんだと思います。もっと言えば、例えばAngelPlayerについては、麻枝准の中ではスルーして欲しかった部分なんじゃないかという気さえしています。ここで視聴者が止まって考えて欲しいわけじゃなく、むしろスルーして、例えば12話のゆりっぺが先生相手に、あるいはNPCの青年相手に語るあのシーンを見て欲しかったんじゃないかと思うわけです。AIRだって、観鈴に課せられた呪いについてで止まって欲しいわけじゃなく、晴子と観鈴のふたりのお話と、「青空」が流れるあの部分、そしてEDの少年と少女が見ている絵、あれらの場面が描きたかった、ユーザーに見て欲しかっただけで、呪いは一要素に過ぎなかったんじゃないかと思うわけです。
 Angel Beats!で「尺が足りないのに、ギャグや寄り道要素が多すぎるんじゃないか? もっと物語の本質に割けよ!」とは、多くの視聴者、僕もそうですが鍵っ子がそう言っていたかと思いますが、麻枝准本人は、譲れない部分を削ることはしていないはずで、アレで十分伝わるはずだ、と考えていたのだと思っています。
 
 そして考えているのは、Angel Beats!に懐疑的な層に鍵っ子が比較的多い事実についてです。これはつまり、麻枝信者であったとしても、今までのKey作品の麻枝シナリオが猛烈に好きだったとしても、もしかするとサブライターさんのシナリオで補完された結果、麻枝シナリオが高みに登った可能性があるんじゃないかと思います。AIRであれば、過去編の涼元氏のシナリオに引っ張られた可能性はあるんじゃないでしょうか?
 そう言えば、麻枝准の名前が知られるようになったのはAIRからかもしれませんが、出世作はONEでありKanonでしょう。しかしONEやKanonは、間違いなく麻枝准個人が評価された作品ではありません。むしろ、かつて3作品でコンビを組んでいた久弥直樹氏が評価された作品で、麻枝准はむしろ、ハズレの方のライターであったと本人が述懐しているように、そこまで認められた存在ではなかったわけです。未だに久弥氏のファンは多いですし(涼元氏は久弥氏に憧れてKeyに入ったという話もありますよね)、麻枝准自身も名前を出すなどその存在は大きいものになっています。久弥氏がいなければ、今の麻枝准はいなかったのは間違いないでしょうし、Angel Beats!なんていう企画も無かったでしょう。
 そうした、実は純粋な麻枝シナリオのファンではない人が、鍵っ子や麻枝信者を名乗っていても、AB!にハマりきれなかったグループに属しているのかな? とも思っています。麻枝准シナリオの唐突さと構成力の弱さは、実はあまり変わっていないんですよね。
 
 逆に、Angel Beats!にハマっている層はと考えると、もちろん「考えるよりも感じた」人がほとんどだと思ってますが、構成や全体を通して良さを見出すのではなく、場面場面の描き方や演出に魅力を感じた人がAB!の物語にハマり込んでいってるんじゃないかと考えています。麻枝シナリオは「歌」「音楽」そのものなのは、以前のブログ記事で書いたとおりですので。曲の集合体みたいな形とも言えるんじゃないかと思います。
【参考】
『麻枝准の作品はすべて「歌」である』

 なんかめちゃくちゃdisっているような気がしますが、これは表裏一体なんですよね。麻枝准というクリエイターというか詩人が、好きになるor嫌いになる理由はほぼ同一だと思うので。まあ「俺って麻枝信者でほとんどの作品が好きだったはずなのに、どうしてAB!はこんなにダメに映るんだろう?」とか思っている方は、こういう理由で駄目だったんじゃないかなあ? とか考えた次第であります。


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