佐倉杏子が見せた「正しい魔法少女としての生き方と最期」〜魔法少女まどか☆マギカ9話考察

 本来であれば「人気キャラの要素」をキャラとしては持ち合わせていなかった杏子が、pixivでは一番人気という凄い効果のあったまどか☆マギカ9話でしたが、彼女の生き様はこの作品に置いて非常に意味のあるものとして描かれていたと思います。
 個人的には、杏子こそが魔法少女として正しい生き方をして、最期を迎えたのではないかという印象が強くあります。というのも、さやかやマミと違い、死に方が必ずしも悲しみや絶望に満ちていたようには思えないからです。そんな杏子の魔法少女としての「正しい生き方」と「正しい最期」をつらつらと書いていきたいと思います。

  • 杏子が魔法少女として正しく生きたと感じる点〜さやかと敵対していた頃まで

 杏子は当初、魔法少女としては自らのためだけに力を使っていました。非常に独善的かつ他者を顧みない感じでしたが、奇跡で助けたはずの家族をすべて失った彼女としては正しい生き方だったと思います。例えば、マミやさやかがやっていた正義感で戦う魔法少女というのは、魔法少女が正義の味方で、街のみんなのために戦うということでした。確かに魔女や使い魔が人を襲うこともあるわけですし、それが知ってる人知らない人に関わらずやられるわけですから、その使命感というのは正しいような気がします。ただし魔法少女は、そもそも願い事の代償として何か呪いのような反動を受けてしまうわけですし、魔力を使うことでソウルジェムが穢れグリーフシードを入手しなければならないわけですから、結局はどこかで人間か魔法少女を殺した魔女を倒すしかありません。でなければさやかのように魔女になってしまうわけです。つまりは、そもそも「正義の味方としての魔法少女」という生き方が100%は無理なのです。
 杏子はその点、守るべき人間をすべて自分の願い事のために失っていて自らもそれを受け入れてますから、他者と自分を分けて考えていて、自分のためだけに魔法少女として生きる道を歩んでいたわけです。使い魔の段階では倒さず、何人か殺してグリーフシードを落とすくらいまで成長するのを待ってから倒すことで、非常に効率よく自らの獲物を手に入れることが出来るわけで、自身のための正しい生き方をしていたと思います。また、使い魔に人間を喰わせて成長させてから倒す、という言い方にさやかが激怒していましたが、モノは考えようなんですよね。結局はグリーフシードを定期的に補充しなければ魔法少女としては終わってしまうので、正義感で戦っている場合でも人間の犠牲は避けられないわけです。犠牲者数は多少違いが出てしまう可能性はありますが、結果としてはあまりやってることは変りないんですよね。
 杏子の考え方そのものも、魔法少女として正しいと言えます。当初は自分のことしか考えてませんでしたが、例えばさやかが上條君のことでおかしくなってしまったり、マミが見えない他者のために戦うも自らの孤独に耐え切れなくなっていたりしていたのを考えると、自分のことしか考えずに戦うということは、穢れを産まないという意味では魔法少女としては正しすぎるとも言えると思います。杏子が、自らの願い事が他者を破滅させ、そしてそれは自分が悪いと受け止めて乗り越えたからこそ、とも言えるんですけどね。

  • 杏子が魔法少女として正しく生きたと感じる点〜さやかに惹かれていってから

 杏子はご存知のように、さやかに惹かれ始めてから独善的な生き方から方向を変えてしまいます。それが魔法少女として正しく生きてきたことから離れ、結果的には死んでしまうわけですが、死ぬことが絶対悪ではないという考え方をしていけば、むしろ彼女は魔法少女として正しい生き方をしたままなのかとも思ってしまいます。
 というのも、さやか以前の杏子はあくまで「自分のため」の生き方でしたが、それがさやかを気にし始めてからは他者のために生きることを選択します。個人的には、失った家族以外に久々に守りたい存在が出来た、それがさやかだったのだろうと考えています。
 魔法少女の特性として孤独になりやすいのは、マミに友達がいなさそうな描写があったり、さやかがどんどん孤立していったり、ほむらは自業自得っぽいですが、杏子がそもそもは孤独だったことから明らかですが、他者に依存したり頼ったりということもなかなか出来なかったからなんじゃないかと思ってます。なので、杏子がむしろ自分から、さやかに手を差し伸べたり、ほむらと協力したりしていたのは、魔法少女としては非常に意味の有ることだと思ってます。魔法少女たちが孤立してしまうのは、特性としてか他者を信用しきれないという部分があります。それこそマミがほむらに対してグリーフシードの横取りうんぬんの話をしたりした部分ですが、そうした損得勘定を超えた部分での協力をし始めたのが杏子なんですよね。魔法少女とて単独で生き抜くことは不可能でしょうから、本来であれば誰かに頭を下げてでも協力を求めたりしないといけないわけですが、あまりそれが出来た試しは無かったんでしょう。それをやり始めたのが杏子だったということで、この点でも魔法少女として正しい生き方をしている、と思ってます。何せ何も言わないほむらに対しても協力するくらいですからね……。

  • 杏子が魔法少女として正しい最期だったと感じる点

 杏子はさやかを救おうとして死んでしまうわけですが、個人的には死んでいるのに悲しいとはあまり思わないという凄く不思議な感覚で観ていました。もちろん涙は出ましたけども。
 何でそんなことを感じたかと言えば、杏子はさやかを多分救えたからなんだと思います。前回の記事にも書きましたが、杏子はさやかに自分の命を裸にして、自らも同じようにソウルジェムを破壊してまでさやかの心の中に飛び込みました。なので、りんごの時にはさやかは拒絶しましたが、あの場面では恐らく杏子を受け入れたのだと考えています。
http://d.hatena.ne.jp/rikio0505/20110308/1299587122
 確かに杏子は死んだんだと思います。死んだということは悲しいことのはずです。が、魔法少女として死ぬ時って、だいたいが悲劇的だと思うんですよね。マミのように、魔女との戦いの最中に殺されるパターンか、さやかのように穢れを溜め込みすぎてソウルジェムがグリーフシードになって魔女化してしまうか。魔法少女同士が共闘したりすることはあまり無さそうですし、そもそも特定の誰かのために戦うにしてもなかなか死と悲劇を切り離すことはできないでしょう。
 それが杏子の場合、まず相手がさやかだったものでした。杏子はほとんど魔女さやかを攻撃していないように、攻撃型魔法少女である杏子が魔女さやかをただ殺す意思が無かったことは明確です。なので、何とか魔女から元に戻せないかを模索しながら攻撃を受け続けていたんでしょう。それこそ、杏子がさやかと初めて交えた時に一方的に攻撃していたのが逆の立場になったように。
 で、結果的には自身のソウルジェムごと魔女さやかを貫くことで無理心中のような終わり方をしてしまうわけですが、さやかに裸の魂で飛び込んでいったということは、「ひとりはさみしいもんな」というセリフもあるように、魔女は結界内で死んでしまえばグリーフシードを遺すか遺さないかはともかくいなかったことになりますし、魔法少女も同じく生きていた証はほぼ消滅してしまうわけですが、消えてしまった結界内では、もしかしたらふたりきりながら一緒になれたのかもしれませんし、精神世界では打ち解けて救われたのだと思いますので、一人ぼっちにはならなかった、ということを意味しているのだと思います。
 そしてもう一つは、さやかがもし救われたのだとしたら、杏子は命を引き換えにはしましたが、やりたいことを貫き通して、しかもそれが報われて死んだことになるわけですから、精神的にはもの凄くハッピーエンドになりますよね。さやかにとっても、杏子を受け入れたとすれば精神的に救われたと言えるわけです。これって、杏子もさやかもグリーフシードは確実に落とさない死に方ではないでしょうか? 悲しみのみの死ではありませんから。むしろ、死んでも幸せな結末なわけですから、キュゥべえの言うような魔法少女の悲しみや絶望で得られるエネルギーというものが発生しておらず、キュゥべえの狙い通りの死でもないわけです。
 なので個人的には、杏子の最期は魔法少女として正しい最期だったと思います。そしてそれを身を持ってほむらに伝えたような気がします。

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 長くなりましたが、魔法少女まどか☆マギカってもの凄く精神的な世界でのお話だな、と思っています。少女たちのぶつかり合いと精神的な闇と救済がこの作品の真のテーマなのかな、と。なので、肉体的にはやはり悲しい結末が待っているのと同時に、それ以上に精神的には救われるような結末がこの作品の最期なんだと思って期待しながら待ちたいと思います。

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