中二病でも恋がしたい!11話の凸守を泣かせたシーンに見る、違和感と石原立也監督の存在

 中二病でも恋がしたい!11話を観ててビックリしました。薄々は感じていたのですが、六花以外のキャラの扱いがかなり酷かったですね。くみん先輩はもちろん全然いなくても大丈夫でしたし、モリサマーも完全にサポート要員、凸守に関してはただ年上キャラが八つ当たり気味に泣かせただけだったんじゃないかと感じてしまって凄く気分が悪かったです。まあ僕が個人的に凸守のことを気に入ってるからってのもあるんですが、あの場面は凸守がアニメオリジナルキャラということもあり「お前ら娘泣かせてどうするんだよ……」と思って観てました。
 しかしここで少し疑問が。京アニはアニメに出てきたキャラを基本的に大切にする制作会社だというイメージがありますが、それは一体どこからついたイメージなのかどうかって部分です。明確に言っているのはけいおんでの山田尚子監督なんですよね。しかしこの中二恋は石原立也監督です。シリーズ構成も吉田玲子さんと花田十輝さんで違いはありますが花田先生はけいおんでも多くの話数を担当されているのでそこの違いはさほど大きな理由にはならないように思っています。だとすると、山田監督と石原監督という監督の違いで生じた違いが明確に出ていたのだろうと考えられます。今回は監督の違いによるところではないかと考えられる、中二恋の違和感について考えていきたいと思います。

  • CLANNADテニス回と似ていた唐突感と断絶さ

 今回の中二恋の展開がもの凄く唐突というか、場面そのものというよりはメインキャラ同士で諌めるというか強い口調で泣かせる、というシーンで見せたことがすごく違和感があったわけですが、その場面が何かに似てたなあ……と考えて思いついたのが、CLANNADのテニス回のシーンでした。CLANNADは中二恋と同じく石原立也監督なんですよね。詳しくは覚えてませんが、メインヒロインである古河渚以外のヒロインのフラグを全て折るという荒業を見せたわけです。何がどう似ているのか? と言えば、それまでは他のヒロインたちとも良好な関係を築いていたのにあの1シーンだけでポッキリ行ってしまったわけです。CLANNADはその後もとりあえずは出てきていたようには思いますが、そういう関係にはならないんだろうなということをいきなり示唆したわけですし、中二恋も凸守というか中二病そのものをいきなり全否定しだしたというのでは似たような感じではなかったかと思っています。中二恋でどの辺から中二病であることを否定し始めていたのかがちょっと微妙に気付けていないのですが、少なくとも勇太は凸守の中二病を否定する立場では無かったはずです。六花は中二病の同志でもあり、中二病な六花だからこそ好きだった凸守なわけで、その凸守に六花が中二病から卒業することを止めようとすることをやめさせるのは、好きだった人を奪うことと同義ではないかとも思うわけです。ぶっちゃけ勇太が略奪したような感じにも受け取れます。CLANNADではそうではなかったのですが、朋也が渚しか観てないという事実と、それを他ヒロインの前で見せつけるかのようなことになっていたということで、CLANNADでも略奪愛的な感じにもなっていたような気がします。
 CLANNADはアニメオリジナル展開でもありすごく唐突というか流れには無かった展開だったこともあり驚きましたが(原作ファンでしたがさほど嫌な感じでは無かった)、力技過ぎるなあとは思っていました。中二恋では、事前の学校でのシーンだけで凸守が六花から引き離されて諦めたシーンは終わったのかと思いきや更にあそこでああ描く蛇足感もあるんですが、まあこの作品で誰かが誰かを号泣させるくらいに怒鳴りまくるシーンがあるのか、という違和感は拭えませんでした。という感じで一緒ではありませんでしたが、近いものを感じてしまいました。

  • ヒロインのみ輝かせたらいい石原監督と、モブまでみんな我が子な山田監督

 先ほどの項目と重なる部分があるのですが、ここで石原立也監督の作風を思い出してみましょう。残念ながらハルヒは観てないのでちょっと分かりかねるのですが、Key原作アニメでの監督の作風はどんな感じなのでしょうか。AIRはともかくとして、CLANNADがさきほど書いた通り、そしてKanonでも名雪ファンが怒ったとかありましたし構成としてはあまり評価は高くないという感じでした。全体的に、1人のメインヒロインが立てば良いとか、あるいは両立できないヒロインについては不遇になっても構わない、という傾向があるように感じました。
 石原立也監督といえば鍵っ子(Key作品の原作ファン)ということで知られているように、Key原作アニメは原作ファン的な目線で描かれていたように感じます。が、それでも叩く人がいたように、良くも悪くも自身が面白いと感じる部分を強調し、逆にあまりそうは思わない部分を改変したりカットしたりしていたように感じました。CLANNADでは風子シナリオをあれだけしっかりやって杏とか智代を番外編に回すとかやってましたしキャラ格差が凄かったわけですが、それこそが石原監督の作風というか傾向ではないかと思うわけです。
 けいおんだけですが、山田尚子監督の作風はそうじゃない感じですよね。1期こそメインキャラ周辺以外のキャラ描写はさほどでもありませんでしたが、2期はアニメオリジナル展開が多かったこともありますが、非常にキャラの描き分けとかモブキャラの描写を繊細に施していたように感じました。メインキャラ5人の登場比率や配分もそれなりに考えられ、ある意味ではプリキュアくらいには気を遣っていたようにも感じました。要は、捨てキャラを作らない作風なのかなーという感じです。もちろんメイン以上にモブが目立つバランスではダメなわけですが、そこはメインとメイン以外、そしてそれ以外のサブキャラという感じで回想的にしておいて、でもそのランクに属しているキャラの中での描写や待遇の差はあまり付けないようにしているように感じました。
 つまりは、山田監督が中二恋を作っていれば、わざわざオリキャラとして登場させたくみん先輩を使い切れないなんてことは無かったでしょうし、六花の変化を受け入れさせるために勇太が凸守を泣かせるなんてシーンも入れなかっただろう、ということです。森夏ももっと活躍させられたでしょうし、作風的にももっと中二病患者にとって優しい感じになっていたような気がするわけです。
 関係ないですが、石原監督はあまり中二病をよくわかってないというか、中二病の女の子がどう可愛いかを理解できていないんじゃないかと感じていますがどうでしょうか? 日常の時もそうでしたが、原作を面白いと思っていたり、原作がどう面白いのかをしっかり理解できている時とそうでない時の差が結構激しいのかな、という印象があったりします。だからこう、中二病を愛する作風だったはずが何か否定的な方向になってきているのかな……と感じています。脚本の花田十輝先生はシュタインズ・ゲートカンピオーネ!など様々な中二病アニメを手がけていますし、そういえば凸守役で凄い泣き演技を披露してくれた上坂すみれさんもロシア・ミリタリヲタで中二病患者さんでもあるわけですから、違和感あったんじゃないかあとか考えていますがどうでしょうか。

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 「日常」は面白く無いと思ってますが、それは作風とかギャグ演出の微妙さだけでは無かったのかもしれないと今は感じています。京都アニメーションでも、「氷菓」の武本康弘監督あたりだと割とバランスの良い作風になっているような気がするんですが、石原立也監督だとかなり地雷なのかもしれないですね。京アニは次のクールから山田尚子監督・シリーズ構成吉田玲子さんのオリジナルアニメ「たまこまーけっと」が始まりますが、恐らくは優しい世界観で不遇なキャラなどいないし理不尽に泣かされることもない作品になるんじゃないかと思っていたりします。まあ作風で縛り付けるのも良くないのですが、監督による違いみたいなものを感じられたらいいのになって思っています。