魔法少女まどか★マギカ 3話の、圧倒的な「断絶感」と「悲しみ」のみの「死」

 まどか★マギカ3話観ました……。衝撃展開なんて言葉を気安く使いたくないとは思いますが、観ていてリアルに震えました。まさか3話でいなくなるなんてAngel Beats!の岩沢さんじゃないですかー!とも思いましたが……。
 途中から死亡フラグ的なセリフを連発していたので、まあ近いうちにやられちゃうんだろうなあとはもちろん思いましたが、それにしても死の、殺される場面のエグさはちょっと心の準備をしていなければ、いや心の準備をしてリピート再生をしていても心臓に悪いです。
 脚本の虚淵玄さんの今までの作品(僕は触れたことがないのですが)から「血だまりスケッチ」という言葉が放送開始前から飛び交っていましたけど、この場面の表現は氏の作風だとしても、それをアニメ畑の新房監督がゴーサインを出して表現してしまったわけなので、この「魔法少女まどか★マギカ」という作品自体から発せられたメッセージみたいなものだと捉えています。
 では、何であそこまでエグい場面にしてしまったのでしょうか? 正直、そもそもは蒼樹うめ先生のキャラが戦って傷つくくらいまではやるだろうなあと思ってはいたのですが、まさか敵に首だけ喰われるわ、首なしの身体が(シルエットではありますが)落下するわ、魔女の身体から出てきた時には最後ぐちゃっと溶けてるわ、そしてその場所には壊れたティーカップと血だまりがあるわ……。最後は思考停止しそうになりますが、うめキャラがこうなってしまうことへのギャップ効果としてはやり過ぎですし、作品自体のインパクトを与えるだけとしてもやはりやり過ぎなので、もっと別に何か意図があったのだと思います。そんな意図が何処にあったのかを考えながら書いていきます。

 魔法少女は穢れである、という記事を以前に書きましたが、それに近い形で、魔法少女になることの格好良さと、それに伴うリスクを強烈に印象づけたかった、と思います。それだけだとあそこまで描かなくても良さそうなんですが、これは安易な気持ちで魔法少女になろうとしていた(わけでも無さそうですが)まどかとさやかに対して、そのリスクを見せつけたという意味でもありますし、視聴者側にも終わりは呆気なく、また綺麗なものではないことを印象づけるためにやったのかもしれません。

  • 死に対するイメージ付け…死の持つ圧倒的な「断絶」感

 個人的にはこれが一番ですね。さっきまで頼もしく戦っていたマミが、一瞬の油断で喰われ、何も言葉も発せられないまま終わってしまった、あの感じです。よくある感じだと、例え死ぬ場面を描いたとしても、致命傷を負って死にそうになり、主人公たちに看取られるようにして逝くとか、そこで最後の言葉を遺したり……って感じですけど、それを一切描かなかったですよね。そして、結界が解けた後に遺されたのはマミのグリーフシードだけですし、それすらほむらが持って行ったわけで、まどかとさやかに遺されたものは何もなく、あるとしたらマミがいたことへの記憶だけ、ということになりますよね。グリーフシードを魔法少女が使うことで、その魔法少女だったものの記憶(悲しみだけ?)の引き継ぎが為されている可能性はありますが。
 個人的には、結界が解けた後に本当に何も遺っていない表現がすごいな、と。つまりはそこに「魔法少女が魔女と戦って殺された」事実は、別の魔法少女がその魔女を倒してグリーフシードを発見した場合と、種が成長して魔女になったことでしか顕れないんですから。
 魔法少女として魔女と戦って敗れる、ということが、死んだ事実や痕跡が遺らないという、魔法少女がいかに孤独な稼業であることを、より印象づけるための描き方だったようにも思います。

 また、すごいな、と思ったのは、変身前と後のコスチュームまで作って、そして武器のデザインや必殺技の形態など、かなり細部まで作りこまれたキャラクターを、ほんの一瞬で殺してしまったあたりです。最後に遺されたのが血と壊れたティーカップでしたし、それさえも結界が解けた後の現実世界には何も無くなっていたわけで…。
 Angel Beats!においてもガルデモの岩沢が同じく3話で退出してしまいましたが、AB!におけるガルデモは物語の真ん中に存在するものではありませんでした。しかしながら、まどマギにおけるマミって、まどマギという作品が「魔法少女」を冠していることから考えても、中心の1人なのは間違いないですよね。なのにあっさり3話で、しかも一瞬で殺してしまったというのが、この「まどか★マギカ」という作品では、いつうめキャラたちがこんな形で殺されるかわからないよ? ということも視聴者に見せてるような気がしますよね。そして視聴者に無類の緊張感を植えつける……と。そういう狙いならもちろん成功してますよね(汗。

  • 圧倒的な「悲しみ」のみの「死」

 前述のAngel Beats!では、死ぬ場面(消える場面)を綺麗なもの、より感動できる場面として描いており、「生きることは素晴らしいけど、死ぬことも決して悪いことではないんだ!」という感じだったかと思いますが、まどマギにおける「死」はそうじゃないですよね。
 それこそ「悲しみ」しかありません。感動できる要素が一つもない。前述の喪失感と悲しみ。「死」は絶対的にネガティブなことだと描いていたように思いました。死ぬことは悲しみと喪失感しか産まない……と。
 だから、これからもまどマギでは誰かが(複数)死ぬ場面があるでしょうが、その時もやはり同じように悲しみしか産まない殺され方をするんだろうなあ、と思います。

  • グリーフシード(グリフシード)の意味

 グリーフシードは以前の記事で書きましたが、公式サイトの用語解説欄を見ると英語の「悲嘆」とは綴りが違い、実はドイツ語らしいのですが、意味は「悲しみ」だそうで同じなようです。なのでこれは「悲しみの種」であることは間違いないわけですが……。つまりは、これは魔法少女がこの魔女と戦って負けて喰われた証でもあるわけです。
 これが育つと魔女になる……という意味も大きいですよね。やはり魔女の源は魔法少女で、魔女に殺されて喰われる時の、恐怖や悲しみ、無念さがグリーフシードの形で遺されているわけですから……。その種を、別の魔法少女が使って魔力を回復させる、という行為はなかなかに凄いというか、複雑な想いのすることだと思います。

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 とまあ、色々と思いのたけをぶつけるように書いてしまいましたが、これはあくまで「巴マミがここで本当に終わった」場合の考え方です。もちろん、今後魔女になって再登場の可能性はあるとは思いますが、実は死んでなかった、という話になればもうこの記事はどうでもいいことになってしまいますが……。個人的にはもう出てこないと思いますし、出てこないほうが、今後の展開とこの作品の世界観を考えると面白いと思っています。虚淵玄さんの作品には触れたことは無いのですが、ここまでのまどマギの描き方を観ていると、彼がそんな救いのあるご都合主義的な物語を描くようには思えないんですよね。EDを観ればわかるように……。
 というわけで、今後は救いのない欝展開が続くものと思いますw 「Magia」がEDとして毎回合うような、そんな展開に……。

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