死ぬこと

 …重いタイトルですね(^-^;
 最近、軽く殺人事件が起きたりしていますが、その度に思うんです。

「皆は、『死ぬ』ってことをどう考えているんだろう?」


と。

 僕は宗教を信じているわけではなく、また死を楽観的に考えていると言うことも無く、

「非常に恐ろしいもの」

だと考えています。

「死んだら人はどうなるのか?」

 考えてみてください。

 天国に行きますか?
 輪廻転生して、何かに生まれ変わりますか?
 幽霊になって現世を彷徨いますか?

 例えば、僕には前世の記憶なんてものはありません。ある…って人のほうがどうかしてるとは思いますが(^-^;
 天国や地獄は、人が、死んでもなお進む先がある、ってことを妄想したに過ぎません。
 幽霊だって、そう言い伝えられているだけです。もしも無念の想いが残るのなら、想いだけで生き続けることができれば、あり得るのかもしれませんが。

 あるのは…「無」だけだと思います。
 死んでしまえば、すべて終わり。考えることも、何も出来なくなるんです。その先で思い出を作る事だって、夢を見る事だって。楽しいことも悲しいことも、すべて個人としては終わり。何も残りません。
 僕らの先祖は、そんな「無」が怖いから、縋るものとして「宗教」を生み出したのでは無いでしょうか? 死なない「神」を生み出し、祈りを捧げることにより、死後の世界を思い描き、死というものの恐怖から逃れようとしたのでは無いでしょうか?

 話が逸れました。
 だからこそ、人は生き続けるんだと思います。死が怖いから。死んだら終わるから。その死の恐怖を、生き続けることの苦しみが上回った人が、自殺、という手段に訴えかけるんだと思います。もちろん、うつ病などの人はその類には含まれませんが。

 そして、そんな「死」を他人の手で与えるなんてことは、同じ人として、あまりにも残忍で最悪な行為だと言うことです。「人を殺した」くらいの理由が無ければ、そんな権利なんて誰にもありません。
 それは、人数の問題では無いのです。その理由が問題。京都宇治の学習塾(京進宇治神明校で萩野裕が堀本紗也乃さんを殺した)の件や、広島の件はいずれも、犯人の自己中心的な動機による殺人です。どうしようも無い殺人…ってのはどういうものかはわかりませんが、少なくともこういう自己中心的で自分の利益・不利益を考えての殺人は、1人だろうと許されるものではありません。また、この先が長い若年者(若年者でも年寄りでも命の重さは変わりませんが、やはり若い人の命はより尊重されるべきです)の命を奪い、無に還しているわけです。どれだけ反省して、更生しても償いきれるものではありません。どうせ刑務所から出所しても、マトモに生活できるわけも無いのです。再犯の可能性が高いなら、1人が犠牲になった時点で、同じ死を持って償わせるしか無いと思うのです。

 今回宇治の学習塾の件で逮捕された同志社大生は、刑法のゼミを取っていたようです。と言う事は、大体殺人でどういう罪が科せられるってことはわかっているはずです。つまり、「1人なら自分は死刑にならない」と言うことくらいは…。
 万が一そういうことを考えて凶行に及んでいたとしたら、情状酌量の余地は全く無いわけです。殺人者の手に掛かった女児にはつりあわないと思いますが、この犯人を死刑にして、最大限の罪を償わせると言う方法は、これからの犯罪の抑止力として行わなければならないと思います。
 ちなみに、殺して自分も自殺、と言う無理心中みたいなケースもありますが、あれも非常に身勝手なものですよね。生きていれば可能性は遺されているのに、それを殺した本人の思い込みによって終わらせてしまうってことですから…。これも、いかなるケースも含めて、殺人と同列に扱うべきです。

 死んだら、終わるんですから。何もかも。そんな状態を、自分が他人の手でやられたらどう思いますか? 恐怖以外の何物も無いはずです。そう考えれば、殺人なんて出来ないはずです。
 もちろん、「やらなければやられる」戦場なら話は別ですが、そもそも戦争自体が異常なことなのです。そのような殺人行為が、日常的に正当な行為として行われているわけですから。

 殺人者には死を。
 同様に、性犯罪者には去勢を。