幻想世界の描かれ方が中途半端すぎじゃないか?〜CLANNAD AFTER STORY 17話より

 17話「夏時間」観ました。旅行に行くまでで1話使ったのは、当たり前とは思っていても嬉しい誤算でした(謎。まさに幼女づくし(違。ほんと、アニメから入った人には理解できたんだろうかw 娘属性のダメなパパにはたまらない展開がこれから続きますw お楽しみにw いじらしい汐の反応に既に泣きそうになっているダメなパパ1号です。
 しかし気になることが一つありました。それは「幻想世界の描かれ方」あるいは「幻想世界と現実(朋也たちがいる)世界との関係性」についてです。あまりに幻想世界の描かれ方が「付け足し」のように思えてならないのですが…。
 と言うのもこの17話でも幻想世界が入りましたが、あのタイミングって原作からすればあり得ないのでは? と言うのが一つあります。
 原作から読み取れた幻想世界って、現実世界と表裏一体の世界だったわけです。幻想世界では現実世界の真逆なものが多いのが一つと、平行する時間が流れていると言うことです。これはわかると思うんですが、もう一つ重要なことがあります。それは幻想世界が「朋也と渚、あるいは汐がお互いの存在を認め合っている間だけ流れる世界」と言うことです。
 原作では、朋也と渚が出会って歩き出したところから幻想世界もスタートしています。要は「僕」と「少女」が出会うところからですね。そして、渚の死と汐を朋也が認めないところから、両者との関係が切れてしまうと言うことで、幻想世界も流れなくなるんですよ。で、再び幻想世界が動き始めるのが、朋也が汐を認めたあの「りょこう」からなんです。それが原作での流れでした。
 しかしながらアニメでは、その辺のことは無視して、OPの前か後の、現実世界での話が切れない部分に機械的に挿入していることが多いような気がするのです。これは原作でも、一日の始まりに入っていたりしたので自然なことなんですが、よりによって今回、あのタイミングで幻想世界を入れてしまうのはどうかと…。これでもし原作でも、同じタイミングで幻想世界が進んでいたら本当に申し訳ない感じなんですけど…違いますよね。
 本当に言いたいのは、もっと原作原理主義を貫け! ってことではなく、アニメからCLANNADに入った人が理解できるような描き方で幻想世界を描くか、あるいはもうほとんど無視して描くか。要は中途半端だと思うんですよ。幻想世界のエピソードについては、ほぼ原作どおりでほとんどアニメでも採用されています。が、渚以外のエピソードの多かった一期前半〜中盤や、AFTERの前半なんかは幻想世界を描くことが出来なかったために、幻想世界の描写が飛び飛びになってしまいましたから、原作を知らない人ならまず理解できないと思うんですよね。で、原作ファンからすると、幻想世界を描くタイミングに「?」が出ることがあります。もちろん、少女とガラクタ人形、空と草原と小屋とガラクタだけの世界を描写することが、人間ドラマに終始するCLANNADという作品にファンタジーの要素を加えることにはなるんですが…(原作ファンからすれば、幻想世界があってこそ成立する物語ではありますけど)。こだわるならもう一歩こだわって欲しかったな、と言うのが偽らざる気持ちです。
 ちなみに以前にも書きましたが、「幻想世界の少女=渚・汐」と言う解釈は正しい部分と間違った部分があり、正しくは「幻想世界の少女≒渚・汐」と言う感じで、渚や汐は幻想世界の少女が補っている存在、と言うのが正しいところでしょう。この辺の僕なりの解釈はもっとあるんですが、またリクエストでもあれば書きます。

 あ、あとどうでもいいレベルの話ですが、朋也のこしょうチャーハンが出てきましたね。でもあれ原作では、渚がいないときに朋也がテレビの料理番組を見てて、それの記憶を辿りながら作ってたんですよ。でもアニメでは、それを観たってフラグがなかった…。こだわるならこの辺もこだわって欲しかった…(無理。