Angel Beats!における死の描写が軽い理由とは?〜麻枝准の死生観より

 今日もやられやくに、AB!開発日記に書かれていた、例の列車事故をdisる内容のものが紹介されていました。その内容はややネタじゃないかと思えるようなものでしたが、やられやくの管理人さんが真面目にコメントされていたのが印象的でした。
(参照)http://yunakiti.blog79.fc2.com/blog-entry-5244.html
 しかしながら、特にこのAngel Beats!という作品では、世界観が「死後の世界」ということもあり、死の場面が頻繁に出てきます。しかしどれも軽く描かれているようには、麻枝信者の自分から見ても感じてしまいます。歴代のKey作品でも、Keyは割と簡単に人を殺して感動を得る、と言うイメージを持つ人も少なくなく、そんな意見も納得せざるを得ない時も多々あります。
 ただこのAB!という作品においては、そうした死の場面の描写が軽いのは、ある意味では狙い通りなのかもしれない、と言う見方を自分はしています。その理由をいくつか挙げていきたいと思います。
 
 そもそも麻枝作品のテーマはKey以前の「MOON.」の頃から、その多くに生死が関わってくることは知られているとおりです。そしてその多くは、生きている間に何をしてきたか、何ができたか、を問うようなものになっています。つまりは、死ぬこと、死んだことはある種、ただの結果でしかなく、それまでやその後が重要なものとして描かれているわけです。
 そういう視点でAB!を見ていきましょう。……全く真逆ですよね(汗。既に死んでるんですから。死後の世界で、生きていた頃に果たせなかった思いを遂げる……そんな話になっています。
 ただ、実のところあまり構図としては変わっていません。死へのモラトリアム、そんな世界観ではないかと思います。そしてそのモラトリアムな世界で、生前なし得なかったことを果たして行く、そういう物語だと思います。
 つまりは、AB!における「死の描写」は、あくまでこの世界では前提の話であって、どうやって死んだのかは重要ではない、と言うのが個人的な考え方です。なので、歌えなくなり挫折と絶望の中で死んで行った岩沢の死も、絶望の中で薬に走りそのまま生前の記憶をすべて失った日向も、希望とやる気に満ちながらも一瞬で暗転した音無にしても、同じ「死」なんだというスタンスなのでは無いかな? と考えているのです。
 もちろん、死の直前の状態と、死に方で、AB!の世界に入った時のそのキャラの思考や能力、そして世界の中での役割や使命感みたいなものが全く異なってくるのでは無いかとは思いますが、あくまでそれは、この世界に入るキッカケとして描いているだけのことであって、麻枝准のメッセージとしてはこの世界でどう生きているかなんだと思いますし、AB!で描いているのはまさにそこなんだと思います。なので、このモラトリアムな世界でいかに生きているかが、AB!における最も描きたいものなんじゃないかと考えています。
 
 もうひとつの考え方とすれば、死というのものが特別なものじゃない、いつか誰でも訪れるものである、という死生観みたいなものが麻枝准にはあるのかもしれません。今までのKey作品であれば、たまたまそれがヒロインだったり主人公だったりに訪れて……というものでした。作品中では死に至らないキャラのほうが多くて、そこで死ぬキャラがクローズアップされることが多かったように思います。智代アフターなんてのは最たる例ですよね。ほぼ「死」には縁のない主人公の朋也に突然の「死」が訪れるわけですから、その唐突さに違和感を感じる人がオリジナル版の発売直後には多かったのか、当時は相当な批判を受ける結果となりました(現在では再評価されていますが、それがコンシューマ版で書き直された結果なのかどうかは判断つきかねます)。AB!は違いますよね。すべてのキャラに死が訪れており、生死と向き合ったことのあるキャラだけで構成されています。これって今までの麻枝作品からしても、もちろん異例のことなんですよね。
 ですから余計に、一つ一つの死が重く描かれないのでは無いかと考えています。麻枝さん自身の考えを聴いたことが無いのでわかりませんが、CLANNADを制作する際に参考になった作品が柳美里さんの「命」シリーズだったことを考えてみても、やはり「生きる」ことがあくまで重要なのではないかと考えられるわけです。そんな人間に平等に訪れる死というものに、若くして直面したキャラたちだけで構成されている世界……それがAB!の世界観ですから、余計に個々の死について立ち止まって深く描写しないのではないでしょうか?
 http://akirunoneko.at.infoseek.co.jp/archive/text/maeda_visual_style_interview.html(visual style 2008 1 vol.01 巻頭インタビューをテキスト化したサイトより。VS第1号を参照)
 死というのものが特別なものじゃないという考えが前提にあるとしたら、死がある程度軽く扱われているように見えてもある程度は仕様がないのかな? と思います。そして、どうしても「死」というところで立ち止まってしまったり、「死」の表現は重要であるという認識を持って見ている人たちからすれば、麻枝作品やKey作品の「死」の表現に抵抗を持ってしまう可能性は高いでしょうし、作品に込められた真意を感じられずに終わってしまうのではないかと思います。そこで立ち止まらない、あるいはその先を含めて、「死」の表現も一部と考え、全体を見てそのメッセージ性を感じようとする人のほうが、麻枝作品を、AB!を楽しめるんじゃないかと思います。
 
 とはいえ、AB!の死の描写は確かに軽いと、麻枝信者である僕も思います。CLANNADあたりだとそこを長い尺を使って納得させるような描写を取りましたが、AB!はそれが全く出来ないことで余計に視聴者にそういう印象を与えてしまうんだとは思ってます。ですから余計に、死が前提条件だとか、特別なものではない、という認識を持って見た方が、AB!で麻枝准が伝えたいものの本質が見えてくるように感じています。
 
 まあ堅苦しいことは抜きにして、麻枝さんが伝えないのは「死に方」じゃなく「どう生きるか」だと言うことを書きたかっただけなのです。それを描きたいがために、AB!では敢えて全てのキャラに「死」という前提条件を与えているのかな? と考えています。そう考えると、Angel Beats!という作品に出てくる各キャラの結末はどうなってしまうのか、自ずと見えてくるような気がしてきますが……どうなるのでしょうか。
 
 最後に……。Angel Beats!における生死表現で多少逃げ場として置いていると思うのが、人間の死の瞬間って恐らくは認識出来ないだろうな、という部分じゃないかと思ってます。というのも、死んだ、と遠くから自分の死体を見て認識してるキャラはおらず、ああ、この後に死んだんだろうな……と言うことを、直前の記憶を根拠にそう認識させているだけ、だからです。なので、この世界から何らかの形で消えたり、あるいは全うしたりしたとして、現世に帰って復活、という筋書きも消えたわけではないんじゃないか? と言うことだけ最後に付け加えておきます。


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