『迷家』は、なぜ大爆死したのか?

 アニメ放送開始前に、クラウドファンディングを始めるなどしても話題となった『迷家』が、円盤の数字が出ないほどの低い売上になるなどして、いわゆる「大爆死」してしまいました。このブログでも、放送開始前に取り上げるなどして注目はしていましたし、全話観ましたが、水島努監督ファンを自認する自分でさえ「ダメだこりゃ」な内容でした。それが僕だけの印象なら良かったのですが、観測範囲内で良く言っている人を観たことがありませんでした。例え円盤の売上が低くても、それなりの数の人間が観ていたようなアニメだと、擁護派とか絶賛する人が出たりもするわけですが、この作品についてはそれも皆無という感じでした(絶賛記事があれば教えて下さい)。
 ヒットメーカーでありファンも多い、水島努監督とシリーズ構成岡田麿里が初タッグということでも話題になったわけですが、この2人が組んで大爆死アニメが生まれてしまうことは、正直放送開始前ではわからなかったです。
 では、どうしてこんな悲惨なことになってしまったのでしょうか? 今期の『レガリア』のようなスケジュール破綻などもなく(?)、またイベント等での問題発言など外野に足を引っ張られたわけでもなく、純然たる作品内容の問題でこうなってしまったのだろうと思っています。なので、何故ダメだったのか、ダメになってしまった原因は何処にあったのかを考えてみたいと思います。

  • 何一つとして魅力的な要素がなかった

 『迷家』については、つくづくこの部分が大問題だったと思っていますが、とにかく何処にも魅力を感じませんでした。
 恐らくは「ミステリー」として面白ければもう少しマシな感想にもなったと思うのですが、そのミステリー要素の部分がとにかく中途半端すぎて、なんじゃこりゃってなってしまいました。そして、やはり監督の、放送開始前のあのツイートを思い出してしまうわけです。

 水島努監督といえば、ジャンルごとに最適に見えるような作り方をするのが上手い監督、という印象が強くあります。なので、ギャグものだけではなく、『ガルパン』のようなスポーツもの(?)も、何を見せたいのかが明確なため、そこにリソースを全振りさせて、面白くしていけるのが強みと考えています。
 その意味で『迷家』は最悪だったと言わざるを得ません。ジャンルが明確で無い以上、何を強めにすれば面白くなるのか、方針そのものが立たなくなるのではないでしょうか。現にこの作品では、一番何を見せたかったのかがさっぱりわかりませんでした。企画の狙いとしては、そういう中心部分が明確で無い面白さ、を出したかったのかもしれませんが、結果として抑揚を感じられないような作品になったデメリットを覆すほどのメリットがあったとも思えませんでした。
 また、気になったのがビジュアル面です。この作品はキャラクター原案を立てずに、アニメーターさんが1からキャラクターデザインを手がけているわけですが、そのせいかさほど魅力あるデザインにはなっていなかったような気がしました。可愛さに振るわけでもなし、高いデザインセンスを感じるわけでもなし、リアリティ路線とも遠い……。例えば、同じ時期に放送していたオリジナルアニメで同じ岡田麿里シリーズ構成だった『キズナイーバー』などは、デザインセンス抜群で見た目にも印象的なものになっていましたし、こちらも同時期に放送していたオリジナルアニメ『はいふりハイスクール・フリート)』は、全体的に似たようなデザインではありましたが、世界観的には統一されていたような印象を持ちました。ですが、迷家にはそのどちらも感じることが出来ませんでした。キズナイーバーはいふり迷家と異なるのが、直接アニメーターさんがキャラデザを手がけているわけではなく、マンガなどを手がけている方がキャラクター原案として参加していました。もちろん、オリジナルアニメでアニメーターさんが直接キャラデザを手がけた作品でヒットしたものもあります。『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』や『キルラキル』などはそうですよね。ですが、思いつく限りでは、キャラ原案を立てたアニメのほうが、キャラがより立つ印象が強いです。それに、あの花やキルラキルでキャラデザを手がけているアニメーターは、キャリアも実績も凄い、いわゆるスーパーアニメーターという人たちで、その人の絵柄もアニメファンにはよく認知されていると思います。なので、その人のキャラデザというだけで魅力が付加されるケースとは違い、まだオリジナルアニメ以外でもキャラデザをあまり務めていない迷家のケースは、良いものだと認められる可能性はあったとしても、そこが「売り」にはなりませんし、かなり未知数なものがあったかと思います。
 

  • 監督・シリーズ構成の「得意」を封印した愚策

 『迷家』で一番思ったのが、水島努監督も、シリーズ構成の岡田麿里さんも、どちらも自身の得意分野で勝負できていなかったことです。
 個人的に、この2人の作品には縁があるのか、ただ好きなだけなのかはわかりませんが、割と色んな作品に触れているので何となくわかるのですが、両者ともにかなりハッキリとした作品傾向と、それぞれの得意があると思っています。
 例えば水島努監督なら、ガルパンSHIROBAKOウィッチクラフトワークスなど、たくさんのキャラクターが登場するアニメを得意としている傾向は、周知されているのではないかと思います。もちろんそれはそうなのですが、ただキャラクターが多い作品が得意なわけではなく、その中で視点を持つキャラクターを1,2人に絞り込むことによって、たくさんのキャラクターがいても印象が散らず、話がぶれずにさくさくと進行していける、ところまでが、水島努監督が得意としているところだろうと思います。
 しかしながら迷家では、そうはなっていませんでした。モノローグで過去回想を掘り下げるキャラが4,5人はいたでしょうか。あれでは主人公が主人公として機能もしませんし、話の進行具合が過去回想に入る度に止まり、あるいは話の中心部分がわかりにくくなっていたと思います。これでは多くのキャラクターが出ていることがマイナスにしか働きません。
 岡田麿里さんの得意分野は、言わずもがな「恋愛」だと思います。多くのアニメに恋愛要素が登場し、基本的には痴情のもつれから話が展開していく……のが王道パターンという見方をしています。
 ただ、迷家では、監督からだったと思いますが、恋愛要素を薄めてくれとオーダーされたようです。水島努監督作品ではあまり恋愛を描かない傾向はあるものの、岡田麿里さんを起用しておいて恋愛を絡めない脚本を頼むというのは、どう考えても愚策でしょう。迷家の作中では様々な人間関係のもつれとか衝突がありましたが、ここに恋愛要素が絡んだほうが面白かったのではないか? とも思ってしまいます。
 他にも、水島努監督といえば、1話ごとに起承転結があり、メリハリのある展開でまた次の話につながっていく傾向があると思いますが、そうもなっていません。キャラクターを立たせることは両者とも得意なはずだったのですが、迷家のキャラでそんなに愛着の湧くようなキャラはいませんでした。何もかも上手く行ってませんし、何よりもこの2人を起用した意図が作品から見えてこないのです。
 推測ですが、この迷家という企画そのものが、2人の名前を旗印として利用した、だけなんじゃないかと思うわけです。2人のアイデアありきというわけではなく、最初からあった企画案を通すために、2人を担ぎ上げたような印象です。
 決してそれが、アニメの作り方として悪いわけではありません。水島努監督ならガルパンは、戦車と美少女ものという企画案に乗ってくれる監督として白羽の矢が立ったわけですし、その意味では迷家とそう大きな違いはありません。ただ、企画案を面白くする道筋を誰も立てられなかったか、あるいはこの企画案を面白く出来る人材として、2人は相応しいわけではなかった、のでしょう。ヒットメーカーの2人でこの内容なのですから、最初から面白くなるはずのない企画案だった、ということになるのかもしれませんが。

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 散々に書いてしまいましたが、まあ全て本心ですし、この2人で作るアニメが実現したことでの高揚感が無残な結果になってしまったわけなので、ガス抜きとしても書かせていただきました。
 ぶっちゃけ、この作品をじゃあどうやれば面白くなったのか、というのは全く見えてきませんでした。リアルタイム的に話が進行していく、過程はその都度サイコロを振って決める、的なやり方だったと思うのですが、本当に博打なやり方でもあったと思います。また、どうも最初と最後を決めて話を進めたようなのですが、そのために間の話が穴埋めみたいになり、過程の話がスカスカになっていたようにも思いました。
 こんなオリジナルアニメはこれで最後にしていただきたいと思うと同時に、水島努×岡田麿里アニメはこれで終わりにするのではなく、PAさんかJCさんあたりでもう1度お願いしたいと思っています。

<参考>
見る目の無かった『迷家』展望記事。