人は麻枝准をなぜ「神」と呼ぶのか?

 僕はやや中途半端な存在ですが、たまには「麻枝信者」っぽいことを言ってみることにします(汗。一応、麻枝准原理主義者なので(こういう言い方は定着していないですよね?)。
 今回は、なぜ麻枝准と言う人が特別な存在なのか? 神と言われる事があるのか? そういうことを列挙してみたいと思います。
 

  • 独特の世界観構築

「箱庭的世界観」
 僕が麻枝准企画のゲームで思うことです。
 麻枝企画では、必ず、極めて狭い世界観の中で物語が完結しています。いわゆる「悪意の第三者」が存在しなかったり、アクシデント的なイベントが発生したりと言うことがもの凄く少ない。もしそういうのがあったとしても、それは必ず「事後」のものであって、シナリオを動かすメインとはならないことです。
 また、登場人物のほとんどすべてに「意思」を持たせ、それぞれの思惑を持って動いているってのも大きな特徴かもしれません。要するに、無駄な登場人物がほとんどいないんです。CLANNADを例に挙げてみましょう。…顔グラフィックがある麻枝キャラで、誰か「いなくても良かっただろ」ってキャラはいますか? いないですよね。古河夫妻に芳野さんや公子さん、幸村先生や直幸にしろ、すべて意味のあるものにしているわけですし、全キャラにそれぞれの幸せを描いていたりと、完結もさせています。まあしかし、CLANNADはやりすぎだと思いましたけどw Kanonなら、例えば舞シナリオで佐祐理さんが目立ちすぎだろっ、と思うわけですが、彼女も彼女なりの意思があって、舞や祐一と行動を共にしているわけですしね。AIRの晴子にしてもそう。だからこそ、サブキャラとしてもキャラが立ちすぎているわけですし、SS的にも同人でも人気があるわけです。キャラの方向性がはっきりとしているために、描きやすいし思い入れを入れやすい。
 リトルバスターズ!でも、野郎キャラ3人の方向性がしっかりしてますよね。無駄なキャラなど誰もいないのです。ですから、リトバスの佐々美も麻枝キャラだったら良かったんですが…。それだけが重ね重ね残念。

  • 学問的知識は必要なし

 これも最近になって思ったことなんですが。
 麻枝さんのシナリオでは、ほとんど難しい言葉が出てきません。具体的な病名とか、専門的な言葉とか。これは、ギャルゲーのシナリオとしてはかなり異例のことだったりします。
 例えば、AIRのSUMMER編(過去編)とかCLANNAD一ノ瀬ことみシナリオ(どちらも涼元悠一氏だと言われています)なんかは、割と難しい言葉とか設定が出てきたりしています。が、麻枝さんのシナリオでは、そういうのがまずない。あくまで自らが設定した世界観の出来事だけで、自分の知ってること以上の知識を要求することはありません。
 個人的に思うのは、例えばライターさんが図書館などでシナリオのアイデアを考えているとしたら、当然本の中から活路を見出しますよね。それが麻枝シナリオではあり得ないことなのです。
 麻枝シナリオが「難しい」「わけがわからない」と感じている人は、彼の世界観についての理解が足りないんだと思います。ほぼ、ゲーム本編と彼の描いた詞で描かれていますから。

  • バイタリティが凄い

 麻枝准と言う人は、あり得ないくらいにバイタリティがあると思います。
 だって、あの超大作CLANNADの製作中に、息抜きかもしれませんが「KEY+LIA」の曲と詞を書いたり、自分でゲームの作曲もし、riyaさんを発掘してきて、「ソララド」編曲のLittle Wingも見つけてきて、さらに「ヒビキのマホウ」もスタートさせたりと、ちょっと1ライターの枠では収まらないような行動力を持っていると思います。
 中でも、その人脈と言うか発掘能力は凄すぎます。ボーカルを発掘するのはもちろんですが、ヒビキのマホウ依澄れい氏、CLANNADオフィシャルコミックのみさき樹里氏、リトバス4コマの笹桐ゆうや氏。…恐らく、麻枝さんが指名した人たちです。つまり、彼らの同人誌やアンソロ本なども読んでいることに他ならないでしょう。リトバス4コマ本のオビに「僕の目に狂いはなかった!!(麻枝准)」って書いてますからねw
 逆に言えば、同人作品にまでチェックを入れているような、ユーザーの反応をかなり気にする人でもあるってことですが。

  • 家族と強さと

 麻枝作品でお決まりなのが、「家族」と言うキーワードです。リトバスでも、主人公は家族を失っていたり、恭介と鈴の兄妹を出していたりなど、どこか普通じゃない家族像を描いています。ただ、単にスパイス的に描いているだけ、と言う感じもしなくは無いんですけどね。
 強さに関しても、CLANNAD発売前後で「自分の歌詞を見ていると『強さ』ばっかり出てる」みたいなことを本人が言っていたので、意識はあるそうです。KEY+LIAでもたびたび登場します。何となくですが、彼の世界観にはCoccoが相当影響を及ぼしているんじゃないかって勝手に考えています。
 活動休止前のCoccoの歌詞には「力」と言う言葉が頻繁に使われていますし、生と死に関してのことも多いです。それに、空と海、自身の存在についての記述も非常に多い。「もくまおう」って歌の歌詞は、CLANNADの幻想世界の少女の最後のシーンとピタリと合いますからね…。「大きな樹には小鳥が集う」とか、「あなたを縛っていた」「全て解いて 気付いた」とか、「変わっていく私を、笑ってもいい」「変わらない想いを、覚えていて」とかね。全文見るとわかりますが、どうもあのシーンはこれにインスパイアされたとしか思えないくらいに…。
 今回のリトバスでは、そこまでのアーティスト的な感覚は見出せなかったんですが、「強さ」と言う部分では非常に麻枝作品らしかったな、と思いました。理樹や鈴が弱い存在だってこともあったんですが、それはほとんどのキャラが弱くて、本当に強いのは、もしかすると真人と恭介くらいのものかもしれません。そんなみんながちょっとずつ強くなって、最後の大団円を迎える…。特に、理樹は結構強くなりますし、鈴も多少は強くなりますから。

 そういえば、リトバス初回版の付録「棗恭介風来記」の巻末の麻枝さんのコメントページ。今までのKeyで自らが手がけてきた作品のクライマックスシーンのCGが掲載されていますが、何となくKanonで真琴を取り上げているあたりが、麻枝さんらしいなあと思いました。鈴とか風子とかを見てもわかるでしょうが、ツンデレで子ども子どもしていて、放っておいたら消えそうな(消える)キャラが得意なんですよね。そういうキャラが好きな僕としては、舞じゃなくて真琴ってのが何となく嬉しかったですw
 でも、舞みたいなキャラって麻枝さんでは珍しいんですよね。子どもっぽいってところは麻枝キャラらしいのですが、不思議系ってところとかが。智代はもっと珍しいんですけどね。


  • アーティスティックな感覚

 これは、最近ネットで知り合った友人たちと確認しあっていることなんですが、麻枝作品は非常に「歌に近い」と思うんです。歌詞がそのまま作品になったというか、歌詞を書く感じでシナリオを描いているというか…。
 これは、「ここでこういうシーンを入れたら萌えるだろうな…」とか、そういう計算めいたものよりもまず、麻枝准という人が「描きたい」「入れたい」と思うエピソードを優先して入れることによって、より独自性が高まっているような気がします。
 そもそも麻枝作品って、説明不足だったり、感覚的な話が多かったりしますよね。歌の歌詞だって、それは同じなんですよ。
 だからこそ個人的には、セリフだけじゃなく、地の文も含めて、麻枝さんのテキストはボイスとは完全にそぐわないような気がしてます…。リトバスでは、確かに声が入ることを前提にしたテキストにしていたようには思いました。上手くハマっていたと思います。が、ボイスなしのCLANNADより演出面で上回っていたか?と聞かれれば、間違いなく「No」です。
 個人的には、声が無くてもというよりは、声が無いからこそ、麻枝さんのテキストの、アーティスティックな良さが際立つんじゃねえかって思っているんですけどね。


 たぶん、まだまだ書き足りないので、続きはまた後日。
 …麻枝信者ですが、もちろん良くない面も挙げたいと思いますしね。