『岡崎汐=幻想世界の少女』と断言できないだろ!?と思う理由〜CLANNAD AFTER STORY考察

 原作原理主義も、度が過ぎると原作者までも攻撃してしまうと言う前置きを書いておきます(ぇ。
 さて表題の件ですが、アニメだけ観た人は最後に風子が汐を見つけて「ぽかーん」だったのか、あるいは少女=汐で納得されたのかはわかりませんが、ゲーム原作から入った人は納得の演出だったと思った人も多かったんじゃないかと思います。
 ただ考察が出回っていなかったゲーム発売直後には、しばらくの間「幻想世界の少女って誰?」という議論が各所でなされていたのです。風子説、渚説、朋也のお婆さん説までw その中でいつの間にか「幻想世界の少女=汐」説が有力となったわけですが、決定付けたのはKeyスタッフによる電撃G'sで連載されたSS集「光見守る坂道で」に掲載された麻枝さんの汐SSでした。あそこで原作者自らが完全に「汐は少女だ」というSSを書いたことでファンは納得したんでしょう。京アニCLANNAD AFTER STORYでも最後にああやって少女=汐と決定付けて登場させていますので、ファンの認識は確定したんじゃないかと思います。
 でも、ちょっと待ってくれ!と言いたい。
 原作を考察した身とすれば、「少女=汐」なはずが無いんです。それは言いすぎですが、少なくとも「AFTER汐編の汐(アニメで言う汐登場から21話までの汐)」と「トゥルーエンド後の汐(22話での汐)」は別人では無いでしょうか? そうで無いと、CLANNADの世界観や総合しての感想が大きく異なってきてしまいます。
 なぜこんなことを言いたいのかと言うと、すべての汐=少女の場合、なら少女は何を失ったのか? 何を犠牲にしたのか? ってことの説明が全く為されていないのですよ。だって、幻想世界の最後の部分で、確かに少女は朋也(ガラクタ人形)と決別をしているわけです。なのに朋也が集めた光の玉がドラゴンボールみたいに作用して、皆が救われて、更には少女も汐として朋也の側に戻ってこられた? そんなご都合主義満点なのがCLANNADなんでしょうか?
 話が逸れますが、僕はリトルバスターズ!CLANNADほど好きじゃありません。その理由は簡単です。トゥルーエンドがオールハッピーエンドなんですよね。犠牲にしたものが無さ過ぎる。何もかもが上手く行けばハッピーエンドってご都合主義に思えてならなかったからです。まあリトバスの場合、何度もバッドエンドを繰り返し痛みを蓄積させて、それらを乗り越えてハッピーエンド、と言う極めてゲーム的な世界観の上に成り立っているので仕方ないんですが(その意味では、沙耶シナリオはある意味ではトゥルーエンドの一つの形かもしれません)、CLANNADもそんなご都合主義だったの? という事です。
 根拠もあります。
 まずは、少女が幻想世界の最後(アニメAFTER22話の幻想世界の部分)で少女が「さよなら…パパっ」と言います。汐編の最後(AFTER21話)で汐が死ぬ?寸前にも「パパ…だいすき」と言っています。このことから、少女=汐説が定着したんだとは思います。けれども、それって少し安易なんですよね。と言うのも、少女が最初から汐だったわけじゃないからです。
 アニメだけの人は忘れているかもしれませんが、渚は幼少の頃に瀕死になり(ほぼ死んでたんでしょうけど)、秋生によって連れて来られた「この町の願いが叶う場所」で、秋生の願いを受け入れて復活することになるわけですが、このときに少女は渚の半身となっているんだと考えられます。だからこそ、渚は自然が失われたり、緑が減少する冬に近づくにつれて体調を崩すことに繋がるわけです。そして汐を生むときには、少女は一つですから、汐の方に行ってしまった。そしたら渚は生き続けられないわけで・・・死んじゃうのでは無いかと。
 そもそも幻想世界が始まったのは、朋也が渚に声をかけたからであり、あの「出会い」が無ければ、幻想世界自体が始まってすらいなかったんです。声をかけなければ、お互いが石ころ同然の存在だったために、その存在に気づくことも無かったわけですから。学校が好きだけどくじけそうだった渚と、学校が嫌いで嫌いでたまらなかった朋也だったからこその出会いではあるんですけどね。その辺も語ると長くなるわけですから割愛しますが。
 幻想世界は、現実世界と同じスピードで進んでいきます。幻想世界では数日が現実世界では数年の違いはあれど、幻想世界で起こったことと現実世界で起こったことは、ほぼ同じようにお互いの世界に作用しているので。なら、そんな幻想世界で生きていた少女は、朋也と渚が出会ったときから、ガラクタ人形と共に過ごす日々をスタートさせた…と考えるのが自然ですし、汐編の最後で汐と朋也が力尽きる場面で幻想世界も終わりを迎えた、と言うのが自然でしょう。
 汐が何で死んでしまわなければならなかったのかと言えば、自然がもの凄く減少してしまったことと、あとは人と人との関係が極端に薄れてしまったことも原因だと考えられます。CLANNADは「町と人との物語」なんで。ただでさえ自然が減少してしまった頃に、冬になってしまい、更に朋也が人との関係を絶ってしまいました。そして朋也は町をどんどん嫌いになってしまう。町=少女ですから、余計に少女の力を奪うことにもなったのかもしれません。そして汐は朋也に依存し、朋也も汐に依存してしまう。渚の時は、人と人の繋がりは失っていませんでした。古河夫妻もそうですし、春原兄妹やら仁科・杉坂コンビとか(原作)、杏や椋・ことみとか(アニメ)との繋がりがあったからこそ、持ったと考えていますし。
 
 
 話が本題から逸れすぎましたが、つまりは、少女は朋也と決別することで、朋也を救うことを考えているんです。と言うのは、ゲーム原作の少女と朋也(人形)とのやり取りから読み取ることが出来ます。長すぎるので割愛せざるを得ませんが(要望があればコピペしてるのでお見せできますけど)、少女は朋也を「見守る」ことを選択するわけです。
 それが簡潔に描かれているのが、また出てきた「ソララド」収録の「空に光る」の歌詞ですね。歌詞は麻枝准です。
 
 光る宇宙 光る星
 回り続ける空
 光る海 光る土
 僕たちは古代種
 
 君の手に君の手に
 輝きを託した
 君の目に君の目に
 もう何も映さず
 
 少しだけ息を吸った 生きてる
 泣いてたんだ その美しさに
 
 光る宇宙 光る星
 回り続ける空
 光る海 光る土
 僕たちはその民
 
 君のため君のため
 終わらない夢見た
 君の目は君の目は
 遠くをもう見てた


 光る宇宙 光る星
 回り続ける空
 光る海 光る土
 僕たちは生まれた
 
 どんな時もこの時も
 そばにはいなくても
 いつまでもここにいる
 ずっと見守ってる

 君のため君のため
 終わらない夢見る
 ありがとうありがとう
 声が届かなくても
 
 ありがとうありがとう
 いつまでも祈ってる

 まあ幻想世界の最後の意味と、この歌詞の意味を知った上でこの歌を聴けば、もう涙が止まらなくなるわけですがw 要はこの歌詞から読み取れるのは、少女が人であることの素晴らしさと、それと決別する覚悟、あとは「ありがとうありがとう」の部分に込められた朋也への想いの強さとかがもの凄く垣間見えると思います。ホントこの歌のriyaの歌声と麻枝さんの歌詞は神過ぎるので是非聴いて欲しいです。
 でも、これを見れば、安易にトゥルーエンド後の汐=少女と言えますかね? これだけの覚悟を持って朋也と決別した少女が、再びすぐに朋也の元に戻ってこられたって言うのはあまりに安直じゃないですかね? もちろん、朋也が集めた光の玉を発動させた結果、町全体に幸せが降り注いだってのが一つの結果ですが、そこで少女まで現実世界で大団円を迎えてしまえば、幻想世界に独り残った少女の決意って何だったのか?ってなりませんかね?
 最後の場面で、風子が見つけた正体は幻想世界の少女で間違いありません。それは、トゥルーエンドを迎え+風子マスターになった最終場面でのことです。あそこで風子が見つけた存在が「幻想世界の少女」で間違いないのですが、「岡崎汐」とイコールなのかははっきりと書かれていませんでしたし、風子の登場場所と懐いた相手、マーキングの仕方を考えると、同じ姿形をした存在を見つけた、と言うのは捻りが無さ過ぎる気がするんです。何せ風子は、渚に懐き、汐には「可愛らしい」とさらおうとした後、「においまで覚えました」と、姿形に対する言及は無かったんですよね。だからこそ、風子は姿形が違っていても、そこから発する「におい」で、同じような存在…つまり、渚や汐の中にいた存在=幻想世界の少女に気づけた唯一の存在だったのでは無いかと思うんです。でなければ、風子が汐編(20話か21話?)でにおいに言及する必要がありませんからね。AFTER汐編の汐と、トゥルーエンドの汐=少女であれば、汐の姿形だけ覚えていれば良いわけですから。
 回りくどいかとは思いますが、ご理解していただけたでしょうか? まあこんな長文を読んでくれただけでも感謝ですが、もし異論とか反論とかあればコメント欲しいです! と言うのも、麻枝さんがこれだけ少女と汐、風子との関係について色々と伏線とか部品をばら撒いてくれているのに、その神自身がその辺への答えを無視して結論だけをSSで描いているのですから、声を上げたくもなりますって。
 賛同とか全く得られないかもしれませんが、それでもどうしても問題提起したいネタだったので書きました。正直、麻枝さんの心中を知りたいです(汗。